Table of Contents
原田 信男、中世村落の景観と生活―関東平野東部(へいやとうぶ)を中心として、思文閣出版、京都、1999 (Harada Nobuo, The life and times of a medieval village – A study of the eastern district of Hirano, Kantō region, Shibunkaku Publishing, Kyoto, 1999)

 

原田 信男、中世村落の景観と生活―関東平野東部(へいやとうぶ)を中心として、思文閣出版、京都、1999 (Harada Nobuo, The life and times of a medieval village – A study of the eastern district of Hirano, Kantō region, Shibunkaku Publishing, Kyoto, 1999)

自力救済と村落集団: 中世村落の特色は、武士が在村した点にある。これは、中世村落が武力を有していたと換言することができる。中世村落では、“暴力”と背中合わせの日常が繰り返されたことになる。しかし、このことは、“暴力”で、全てが解決されたことを意味するわけではない。中世社会においては、もちろん基本的には法的枠組みがあり、支配・被支配関係にも秩序はあったが、原則的には自らの問題は自らが解決するという態度が、村落生活に必要とされたのである。

中世村落の武力は、村内に向けられる場合も、村外に向かう場合もあったが、基本的に武力を擁(よ)する集団の維持が第一義であった。中世における“自力救済”とは、個人レベルの問題ではなく、村落の内外に形成される集団の紛争解決のための大原則といえよう。もちろん鎌倉幕府や室町幕府においても、裁判の制度や機構は整備されたが、訴訟を起こして初めて裁きの場が与えられるにすぎず、幕府は基本的に当事者主義をとり、相互の調停を図るだけであった。濫妨狼藉(らんぼうろうせき)や押領を受けた場合に、まず自らの集団を守るのは自らの武力であった。

中世において私戦は“自力救済”の原則から、自己の権利を実現する手段として、社会的に認められたが、一方で鎌倉・室町幕府は、こうした解決方法を否定する動きを見せている。貞和二年(1346)二月五日の室町幕府法追加一五において、故戦の側には理由があっても許さず、防戦の側には道理があれば無罪なければ故戦と同罪とするという方針を打ち出している。ただ、これを中世における“自力救済”という観点から多角的に検討し、通念としては私戦を認めながらも、裁判制度を有する公権力としては、これを否定せざるをえなかった事情を明らかにしている。(415)

訴訟によって問題を解決しようしても、裁判の維持には膨大な費用と時間を要した。ましく“自力”による解決の方が、もし勝てさえすれば、より効果的であったことになる。こうした“自力救済”の原則による解決法は、中世のさまざまな諸集団においてとられたが、村落レベルにおいても時報は同様であった。最も著名な例としては、近江国の菅浦荘と大浦荘との紛争が知られるが、「看聞御記 かんぶんごき」応永二四年(1417)二月八日条には、山城国の醍醐と山科の村民が私戦を交え、家100軒を焼く騒ぎになった旨が見え、同二十六月十九に用水をめぐって深草郷と伏見郷との間で合戦が起こりそうになった記事がある。

中世の村落生活においても、用水などの用益権をめぐる争いは、しばしば惹き起こされたが、これらの場合にも私戦が最も身近な解決方法で、“自力救済”の論理は村落レベルにおいても貫徹していたのである。(416) 中世には一郷として互助的に村落生活を営み(いとみ)、場合によっては近隣の村々の百姓中と連合して、自らの村落生活を維持してきたのである。(419) 西国でも東国でも地域的な村落結合が、中世村落の構成員に対して、強固な集団意識を育んでいたことに変わりはあるまい。(421) The main thrust of the argument in the paper is…「村落内部には、こうした(例p.424)同族集団が複数存在して主導的位置を占め、彼らの合意によって中世村落が運営されたのである」(424)

© Greg Pampling. This page was modified in December 2011